ラオスとイサーンは元々同じ民族

ラオス
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ラオスの成り立ちと歴史

‐統一ランサーン時代(ラオス人としての国民性確立期)
1358-1710年,1574-1603年に一時期ビルマの支配下に入りましたが,352年間続いた王朝でラオス人のアイデンティティが確立された時代です。因みにランサーン王国とは「百万頭の象の王国」という意味です。
参照元-ウィキィペディア:ランサーン王国

-三国時代(分裂期)
17010-1779年,69年間,ランサーン王国がルアンパパーン王国ビェンチャン王国チャンパーサック王国の三国に分かれた時代です。

-タイ支配下の時代
1779-1893年,114年間,タイのトンブリー王朝からタイの支配下に入りました。

参照元-ウィキィペディア:トンブリー王朝

‐フランスの植民地時代(フランス領インドシナ)
1893-1949年,56年間,タイから割譲され,フランスの植民地として統治されました。

参照元-ウィキィペディア:フランス領インドシナ

ラオス王国時代
1949-1975年,26年間,フランスとラオスとの協定での名目上の独立しましたが,実際はフランス連合の枠内で,実権はフランスにありました。1953年にフランスの植民地支配が終わり,完全に独立しました。その後ラオスでは右派、中立派、左派によるラオス内戦が1974年まで続きました。

-ラオス人民民主共和国の成立
三派連合によるラオス民族連合政府が1975年ラオス人民民主共和国を樹立しました。
1975-現在

イサーンとは東北タイのことでラオ語を話す

-イサーンは東北タイ
イサーン人はタイの人口の3分1を占め,イサーン地方とはタイの東北地方,コラート高原と呼ばれる大地を中心とする地域でタイの全面積の3分の1を占める広大な地域です。
参照元-ウィキィペディア:イサーン

-イサーンでは広義のラオ語を話す
タイは約70の言語が国内で使用されている多言語国家です。イサーン地方では広義のラオ語を母語とする2000万人のラオ人が住んでいます。タイでは標準・中央タイ語を話す人口の次の2番目の人口で話す人が多い事になります。

-ラオ語とイサーン語は9割同じ言語
ラオ語とイサーン語は元々同じ文化圏の言葉なので,ほぼ同じです。おかしな事にラオスは700万人の人口に対してイサーンは2000万人います,ラオ語を話す人口が逆転しています。戦争の影響で,ラオスよりも戦争の少なかったイサーンの方が伝統文化が残っているのも面白いところです。

ラオスのラオ語とタイのイサーン語の大きな違いは外来語で,ラオ語ではフランス由来の外来語が多く,イサーン語では英語由来の外来語が多いのが特徴です。イサーンではタイ語教育が普及しているおかげでイサーン人は標準タイ語を聞いたり話をしたりすることができます,日常会話ではイサーン語を使っています。

ラオス・イサーン人とタイ人との食の違い

-ラオス人の元々の祖先はメコン川,タイ人の祖先はチャオプラヤ川

ラオス人の元々の祖先はメコン川とその支流に定住していきましたが,タイ人の祖先はチャオプラヤ川流域に定住していきました。そのせいかはわかりませんが,タイ人とラオス人には明確な食の違いがあります。

-ラオス・イサーン人とタイ人の食の違い

ラオスとイサーンはもち米を主食とします。そしてラオスの米の生産量85%はもち米です。またタイ人はうるち米インディカ米を主食とします。ラオスに行くとイサーン料理の代表であるラーブやナムトックを多く見かける事ができます。

現在のラオスはフランスの植民地だった影響で美味しいバゲッドサンドがタイよりも普及しており,あちこちで味わう事ができます。

 

イサーンが同じラオ族でラオスより人口が多い理由

-東北タイはラオ人が多い理由
18世紀にラオ人の国家は東北タイのコラート高原に進出していましたが,タイのトンブリ王朝も進出していました,その当時はコラート高原は権力の空白地帯で,タイ人,ラオ人の勢力がせめぎあっていました,タイのトンブリ王朝の勢力が増して,1779年にラオスの3王国がタイの支配下に入るとともに,東北タイ居住のラオ人は完全にタイの支配下に入りました。またこの時期にラオスの政治抗争のせいで多くのラオ人が東北タイに移住しました。

-より多くのラオ族の伝統が残っているイサーン
東北タイ,イサーンは1779年以来タイの支配下にあり,1827年にタイ人に対する反乱がおきましたが,ラオス本国のように内乱や戦争には直接巻き込まれていないので,ラオ人の伝統文化が残る事になったと推察されます。イサーンはタイ文化に比べると食も文化も独特なものがあります。モーラムやイサーン料理などが有名です。

タイの同化政策によってラオからイサーンという名称に変更させられた

-タイの同化政策はフランスの脅威から
フランスに割譲したラオスと同じ民族のラオ人が,メコン川を挟んで東北タイに多く居住しているという事実は,植民地拡張に意欲を燃やす西欧諸国に干渉の口実を与えかねませんでした。そのため,タイ政府は単一民族による国家形成のために,民族名としてのラオ人の使用が禁止され,「ラオ」のついた地名の削除を行いました。1899年には民族名としてのラオ人の使用が禁止され,ラオス人はイサーン人,ラオ語はイサーン語と呼ばれる事になりました。
東北タイではかつてはラオ文字も使われていましたが,ラオ語という名称をイサーン語という名称に変えたときにラオ語を表記するのにタイ文字を使用させました。そのため,現在では東北タイではラオ文字表記を見かける事はありません

東北タイはラオスと同一

‐タイ国内が混乱した場合の独立の可能性
東北タイは人口は3倍ほどあり,ラオスと同じ民族であり,もしもタイ国内で内乱がおきて混乱した場合は,東北タイとラオスとあわせれば国家としては充分に成立するでしょう。多分にその事実はタイ政府の懸念事項だと考えられます。東北タイに居住するラオ人からイサーン人に改称されてから,まだ118年ほどしか経っていません。自分たちのルーツやアイディンテイテイが「ラオ」であることを意識している人達も大勢いることでしょう。

-イサーンはタイの中で貧しい土地柄の代表
東北タイは塩分が多く雨が少ない土地柄のせいかもともと農業生産性が低い土地柄です。そのためイサーン人はタイ国内では貧しい層の代表格です。バンコクでの建設出稼ぎ労働者はミャンマーやカンボジア労働者の前はイサーン人でした。風俗で働く女性もイサーン出身者の数が現在でも非常に多いのが現実です。タイは階級社会です,新参のタイ人であるイサーン人は仕事面でも差別されていた一面も否めません。イサーン地方はタクシン政権時代の30バーツ医療制度,貧困支援等のおかげでタクシン派が多い地域です。タクシン政権の前には前国王が支援していた地域でもありますが,前国王が生きていた時は善政の記憶が年を取った人たちにも残っており,タイ人として比較的うまく同化してきたのですが,今後はクルドのように,ラオ族としての民族運動が高まるかもしれない地域でもあります。


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